生徒自身の手による作文です。震災で両親を亡くした生徒、不登校やひきこもり経験生徒、荒れていた生活からの立ち直り、若い頃は生活に追われて学校に行けずに還暦を過ぎての高校生活など、赤裸々な人生が綴られています。

 

 神戸地区の定時制・通信制高校の「生活体験発表会」や、神戸工業高校が毎年開いている学校行事、震災祈念の「震災に克つ 激励集会」で数百人の生徒の前で発表されたものです。

 

 一人ひとり長い文章ですが、生徒らの前向きな姿から、しあわせな気持ちが届けられることでしょう。

 

 

 

 

 

県立神戸工業高校 震災激励集会    09.1.14

 

   電気工事士の資格取得をめざして

         
                 県立神戸工業高校 電気科2年  西山 由樹

 

 私は、今から13年前の1995年1月17日に起きた阪神大震災で両親を亡くしました。私が8歳で小学校3年生の時です。文化住宅の1階で寝ていた両親は全壊した建物の下敷きになって、近所の人たちが助けようとしましたが、ガレキの山が大きくて助けられず、数日後に自衛隊が遺体を収容したそうです。
                  
 僕と弟は2階で寝ていたので助かりました。ガレキの中から外に出された時、なぜか1階に置いて有った僕の黒いランドセルが、前の道路に投げ出されているのが目につき、その光景が今でも頭から離れません。今になって思うと、亡くなった両親が、僕に勉強はするんやでと語ってくれているように思えます。

 

 助けられて、すぐに避難所に行きそこからすぐに親戚に預けられました。両親とは、どこか思い出せないけれど、お寺の葬式でお棺の中の顔を見たのが最後のお別れでした。お父さんは39歳、お母さんは31歳でした。

 

 それからは、3軒の親戚の家を移り変わり、僕と弟の苦労が始まりました。どこでも辛い生活でした。どこに行っても両親がいるという、当たり前の生活が送れず、親戚の家族のルールの中で生きることの難しさで、親に甘えることも、子供らしい素直な気持ちも持てずに過ごしました。周りの人の顔色ばかりを気にするような生活で、正直言って、人間が大嫌いな偏屈な人間になっていきました。あまりのつらさに、何で僕らを残して死んだんやと、両親を恨んだこともありました。

 

 ある日、「火垂るの墓」の映画を観て、清太と節子が親戚のおばさんの家で苦労しているのを見た時、同じ苦労やなあ、と思いながら、僕は清太や節子のようには素直には生きられないなあ、と思いました。

 震災で祖父と祖母の家も全壊して、大工の仕事も無くなりました。震災後の生活再建がどれほど大変だったのか、今なら理解できます。けれども、子供の僕には、そんな苦労は理解できず、何かと周りのみんなに当たり散らしていました。

 私の高校進学の時には、長男の私には、私学に行かせる金はない、生活の方が大変なんや、と僕ら兄弟の後見人である祖父と祖母のはき捨てるように言った言葉が耳から離れません。
私は、その頃から、ますます聞き分けのない、周りの親戚を困らせる中学生になっていきました。その時から、悪い友達とつるんだり、夜中に仲間とバイクで暴走行為をして遊んでばかりいました。すると、そっちの方が楽しくて、中学の3学期はほとんど学校には行かず卒業式にも出ませんでした。

 

 いやいや行った西宮の普通科の定時制高校も、すぐに辞めてしまいました。その頃は、祖父の大工仕事も再開され、家も再建できていましたが、生活費は自分で稼がないといけないので、仕事は屋根の葺き替えの会社に行きました。

 

 何事にもぎこちない私を見かねたのか、一番年上のおじいさんが、私に仕事を教えてやろう、なんでも聞きにきなさい、と言ってくれたので、次の日から、毎朝、朝7時半集合のところを1時間早い6時半に会社に行き、仕事の段取りをしたり、板金の折り方を習ったりしました。しんどいけれど、充実感があったので、1年半続けましたが、会社は倒産しました。

 

 高校卒業の必要性を感じて、神戸工業高校の電気科に成人特例で受験すること決めました。
入って見ると、先生方は、私が予想していたよりは、ずっとていねいに理解出来るように勉強を教えて下さり、勉強の苦手な私でもなんとか付いていけています。クラスの年齢も、みんな私よりも若い年下だけど、みんななかなか勤勉で、正直いってびっくりしました。

 

 クラスの人から教わることもたくさん有り、難しい電気工事士の学科は、担任の先生が、一生懸命教えて下さり、私にもやる気が出てくるようになりました。
 ちょっと恥ずかしいですが、この作文を書くのも、勉強の勉の字を間違ったり、工事士の士を仕事の仕と書いたりして直されています。

 

 そんな私ですが、粘り強い先生のお陰で、この夏の二種電気工事士の学科試験は合格することが出来ました。

 偏屈で気分屋の私ですが、毎日仕事をして学校に行くと、だんだん辛抱することが出来る人間になっていると思います。入学した頃は、カッとなって暴力事件を起こしたりして、先生や相手の人や周りの人に、たくさんの迷惑をかけてきました。そんな私に、神戸工業高校の先生やクラスのみんなも辛抱強く付き合ってくれました。

 

 今は、大学に進学した弟の金銭面を助けながら、迷惑をかけてきた、祖父、祖母、叔父さんとも仲良く接することが出来るようになっています。昔のように悪い事をするんじゃない、と自問自答しながら、真面目に人生を考え、神戸工業高校を卒業するために、これからもこりずに学校に通います。

 

 最後に、私が詠んだ短歌を紹介します。

 

      震災で止まった時間今日からは変えて見せるぞ名に恥じぬよう

 

 

 

 

 

   定時制・通信制生徒生活体験発表会 神戸地区大会 09・9

 

    ジュニアマイスターをめざして
                            県立神戸工業高校 情報技術科 3年 
                                             赤坂 翔太
 僕は、小学校と中学校の卒業式には、どちらも出ていません。
 不登校で、家の中にいたからです。家の中では、ほとんどゲームばかりしていました。なぜ、学校に行かなくなり始めたのか、直接思い当たる理由はないのですが、小学校6年生の頃から、学校の集団生活よりも、一人で家に居るほうが気持ちが楽だったからです。

 

 学校に行かなくなり始めた頃は、父も母も、色んな理由をつけて、僕を学校へ行かせようとして、お互いにストレスがありましたが、自分の部屋に居るのが落ち着きました。
 中学3年間の長いひきこもりにも飽きた頃、インターネット検索で神戸工業高校にヒットしました。そこには、情報技術科という学科があって、不登校の生徒もたくさん学んでいると書かれてありました。それを見て、こんな自分でも高校にいけるのかなあと、少し希望が持てました。

 

 中学の先生に相談して、願書を作り応募しました。父も母もびっくりしていました。受験は、勉強らしい勉強をしていないので、不安が一杯でしたが、無事合格し、何か新しい生活が始る予感がして、すこし嬉しかったです。


 神戸工業高校の生徒の雰囲気は、中学校とちがって、茶髪やピアスや、服装も自由で、中には作業服の仕事着の人もいました。柄の悪い感じを受けましたが、なぜか全体の雰囲気がゆっくりしていて、ここなら、僕も続けられそうな気持ちになりました。

 

 クラスも、けっこうにぎやかで、はめを外す生徒もたくさんいましたが、驚いたことが、たいていの人が何らかの仕事やアルバイトをしていることでした。それと、クラスの三分の一以上の人が、僕と同じように、中学校に行っていないということです。


 そんな人が、最初からどうして仕事に行けるのか不思議でした。僕は、学校にくるだけでも精一杯でした。長い、不登校の生活で、朝早く起きるのが苦手になっていました。学校が夕方に始ることが、僕の生活リズムにピッタリで良かったです。

 

 1年の時、国語の授業で、短歌を作りました。僕も、その後仕事に行き始めたことを詠みました。紹介します。


  朝七時鉄とステンをパンチ加工仕事を終えて夜学へ通う


 1年生の2学期から働き始めた鉄工所の仕事の様子です。避難ハシゴのハッチの製造加工と、いろんな部品の裁断をしていました。朝早いのが辛かったですが、定時制の誰もがしているので、僕も続けることができました

 2年に進級してからは、仕事を変えて、水産加工所で働きました。作業内容は、いろんな「たれ」の製造です。何種類かの調味料と醤油を混ぜて調合します。一日中、同じことの繰り返しで、体もしんどく、学校をよく休みました。
 その休み癖が重なって、とうとう学校を休学し、10月からまた家にひきこもるようになりました。先生も友だちも心配をしてくれましたが、家にいました。また、何年もひきこもりそうでした。

 

 けれども、今回は、定時制高校で働いて勉強したことが役に立ちました。家にこもって、将来中卒で生きることのしんどさを考えたら、どこかでがんばるなら、また定時制でがんばろうと、つぎの春に復学しました。体が弱いので、バイトはあまり無理をしないで、友だちの家のリサイクル店を手伝いました。

 

 二回目の2年生の2学期に「基礎製図検定」に合格したのが嬉しかったです。勉強の苦手な僕でもがんばれば取れるのだと、自信になりました。
せっかく工業高校にいるのだから、いろんな資格を取っておこうと、目標を持ちました。
 それからは、「パソコン利用技術検定2級」、「計算技術検定2級」などを取りました。

 

 パソコン利用技術検定2級とは、パソコンの仕組みと、表計算をするためのソフト・エクセルなどを使いこなすための資格です。計算技術検定2級は、ポケットコンピュータなどを使って科学技術の計算をする検定試験です。今年の1月には、工業高校生では難関の「情報技術検定1級」に合格し、珍しい出来事だと、神戸新聞に、写真入りで大きく紹介されました。コンピュータの仕組みやプログラミングのための資格です。

 

 それよりも、今年の4月に合格した国家資格の「初級システムアドミニストレータ」は、僕の最高目標で、やりがいがありました。この資格は、「シスアド」とよばれるもので、会社などで、パソコン利用者のリーダーの役割を担うもので、コンピュータ仕事の設定、保守、管理、運用の実務者の資格です。まさか、こんなに早く取れるとは思っていなかったので、とても嬉しかったです。


 何か、自慢話のように紹介しましたが、小学校も中学校も卒業式に出なかった不登校の自分でも、定時制高校で勉強すれば、世界が広がるのだと思って話しました。

 

 もう一つ嬉しい報告です。今まで取った資格のおかげで、工業高校生の最高位である「ジュニアマイスター」の賞を受けました。マイスターとは、ドイツの職人の最上位の呼び名です。これで、僕も情報処理技術者の仲間入りです。定時制高校で学んでほんとうに良かったです。


 卒業後は、大学進学を予定しています。さらに勉強を続けようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

定時制・通信制生徒生活体験発表会 神戸地区大会 09・9

 

   還暦過ぎて学ぶ
                   県立神戸工業高校 機械科二年   豊永文一

 

 私は、平成20年4月に、神戸工業高校に入学しました。ちょうど還暦を迎えた歳です。


 合格発表の時は、ものすごく不安で、それまで受験を内緒にしていた嫁さんをだましてついて来てもらいました。自分の受験番号、「成人51」を見つけたときは、とびあがるほど嬉しかったです。嫁さんには、そこで初めて、定時制高校に入学することを伝えました。合格番号の前に立ち、携帯で撮った私のピース写真は、一生の宝物です。

 

 還暦にもなって、定時制高校入学を決意した大きな理由は、私が、中学しか卒業していないことで、悔しい思いをいっぱいしてきたからです。

 

 私のふるさとは、奄美大島の徳之島です。自然が豊かで、人情味あふれる島です。私の父は、単身で神戸に働きに出ていたため、私たち家族5人も神戸に引っ越すことになりました。造船所の下請けで働く親父ひとりの稼ぎでは、とても生活していくことははできません。長男の私が、中学を卒業して、妹2人弟1人を高校に行かせるために就職して、家計を助けることにしました。その頃、中卒の私たちは「金のたまご」と、もてはやされていました。主に、鉄鋼関係の仕事が中心でした。溶接や組み立ての仕事をよくしました。

 

 仕事は誰にも負けないくらい頑張りました。おかげで、昭和63年に「奄美工業有限会社」を設立することができました。従業員も、最盛期で2,30人を数えました。これまでの一番大きな仕事は、原子力発電所の大型ドームの格納容器の制作です。仕事は5~6年間続きました。大きな仕事でやりがいがありました。

 

 震災の年には、陥没した大開通りと、その下を走る山陽電鉄大開駅の線路の復旧作業をしました。阪神電車元町駅のトンネルから、工事の道具や機械を運び入れては、工事用の電車で何度も往復したものです。三菱重工の敷地内にある大型クレーンも壊滅状態で、その復旧工事にも従事しました。さらには、三田市にある千刈水源地が干上がり、武庫川からの水を、5~600メートルのパイプを引いて送り込む仕事もしました。

 

 このように、仕事ではいつも充実していたのですが、数学の力が弱いため、図面を見ての計算も、材料などの計算もできませんでした。いつも恥かしい思いをしてきました。

 

 ある日、何とかして分数の計算を身につけたいと思い、書店に行きました。「ドラえもん算数おもしろ攻略」という漫画本を見つけました。何か、宝物でも手に入れた気分で、家に持ち帰りました。分数の引き算、足し算、割り算を、何回も繰り返し読みました。例題の計算が解けるようになった時には、「やったあ!」と、大声をあげて叫びました。自分の胸が熱くなり、いつかは定時制高校に行きたいと思い始めていました。

 

 私の神戸工業高校入学を一番に後押ししてくれたのは、今は亡き親友の娘さんの言葉でした。


 その娘さんは、自分の人生に悩み、アルコール依存症になり、精神分裂症のため精神科の病院への入退院を繰り返しておりました。「自分はいったい何のために生きているのか。」「こんな私でも人の役に立ちたい。」と、人生のやり直しを決めたのです。30才になった時に、病院で出会った看護師さんの影響を受けて、自分でも、人のために生きる仕事がしたいと、看護師になる決意をしたというのです。

 

 それからは、看護学校に入るための予備校に1年間通って勉強し、ようやく、看護学校に入学。今、32歳です。そんな彼女の姿に感動し、私も、このまま年だけとって死んでいくだけの人生は情けないと思い、定時制高校に入学する決意をしました。
私は今、62才です。目も、歯も、体もがたがたです。それでも、若い人たちと交じわると、不思議に元気がもらえます。

 

 一番苦手な数学の問題も、少しずつ理解できるようになりました。根気強く教えてくださる、数学の坂本先生には、本当に感謝しています。

若い人たちには、私のような落ちこぼれにならないためにも、青春を大事にし、よく勉強して、後悔しない人生を歩んでもらいたいと思っています。

 

 私は、今、若者たちといっしょに青春真っ只中にいます。専攻は機械科です。気分は最高です。専攻の機械科も言うことなしです。急がず、高校生活、楽しみます。人生は死ぬまで勉強。死ぬまで青春です。これからも、この気持ちを忘れずがんばります。

 

 私が作った短歌です。

 

   還暦を 迎えて学ぶ 定時制 気分は最高 専攻機械科

 

 

 

 

 

 


  2006年1月18日  県立神戸工業高校 震災激励集会

 

     人生立て直し計画中

                                                                                             
                                  情報技術科 二年  山口 るい

 

 私は12年前、16才でこの神戸工業高校に入学しました。その前は、女子校に行っていたのですが、1年生の途中で辞めて中央市場で働いていました。それでも、やはり将来のことを考えて定時制高校に行こうと考えていた時に、神戸工業高校の先輩が、「神戸工業においで、めっちゃおもしろいで」と誘ってくれたので、ここに入学しました。

 

 そして、仕事と両立しながら、学校生活もなんとか頑張っていたのですが、その頃の私は、ある事情で家を出たいと強く考えていたので、付き合っていた彼と一緒に生活するようになって子供もおなかに出来て、とうとう学校が続けられなくなって、また1年の途中で辞めてしまいました。

 

 それから10年たちました。2年前の春、子供二人をかかえて1年生に入学しなおしました。高校を卒業したいという気持ちはいつも忘れたことはありませんでした。けれども、生活の忙しさからなかなか実現しませんでした。

 

 生活に追われる中から、どうしても高校を卒業したいと思ったのは、大きな理由があるからです。それは私と女友達の二人で考えている「人生立て直し計画」です。

 

 これまで、親の反対を押し切って家を出たり、学校を辞めたり、主人と別れたり、どれも自分の思うようには行かず、生きることのしんどさばかりの連続でした。私には、子供がいるので頑張ってこれたのだと思いますが、その友達とは、なんとか私達の人生を立て直そうな、といつも励まし合っています。

 

 そして、いつの頃からか、私も人の役に立つような人間になりたい、その為には、福祉の仕事に就いてて、お年寄りや身体に障害をもった人達の支えになろうと考えるようになりました。

                                   ・
 その夢の実現の為に友達は看護の専門学校に入学し、私は高校の卒業資格が必要だったのです。そして、介護の仕事に必要な車の運転免許も二人で取りました。

 

 入学してからは、始めは不安だった勉強も年若いクラスの中で楽しく、なんとかやってこれました。勉強が分からない時は、友達が教えてくれたり、先生もわかりやすく教えてくれます。このまま行けば、私の「人生立て直し計画」の高校卒業も、3年で実現出来るのではないかと思えるようになりました。

 

 長男は小学校4年生で、長女は1年生になりました。学校のことや家での生活や躾など、私の言うことはほとんど聞いてくれず、いつもいらいらすることが多いです。けれども、私の両親も応援してくれているし、高校の行事に子供二人を連れてきても、クラスの友達や先生方からも可愛いがってもらえて助かります。今では、どんなに辛いことがあっても子供の顔を見ていると頑張れます。

 

 思い出しても大変だったのは震災の時のことです。震災当時、私は兵庫区に住んでいておなかには7ケ月の長男がいました。切迫流産の恐れがあって、1ケ月間絶対安静の病院生活から退院した途端の地震でした。大きな揺れで起こされ、気がつけばおなかの上に洋服タンスがのしかかっていたのです。なんとか助け出されても、おなかの子供が助かるのか、自分の命はどうなるのかという不安で頭の中は真っ白でした。そして、今度は切迫早産の恐れで、そのまま、学校近くの鐘紡病院に入院して1ケ月過ごしました。

 

 病院といっても震災当時の病院は、水もガスも出ず、トイレの水も流せませんでした。給食も粗末で、賞味期限切れのパンで空腹をおさえたことは良く覚えています。
 病院にはたくさんの被災者や怪我人が運び込まれ、亡くなって行く人も多くいました。私は、自分のおなかの赤ん坊をどうしても頑張って出産するんだ、死なせないぞという気持ちで耐えてきました。その甲斐あって、私は無事長男を授かりました。

 

 震災当時の苦労を思い出して見ると、人間は生きてるだけでも素晴らしいんだと思えます。私も皆さんも、みんなお母さんがおなかを痛めてこの世に誕生したのです。

 

 先生に聞いたことですが、子供を産む分娩の娩も、勉強の勉も、免許の免も、みんな女の人が出産する様子で、おなかを痛めるほど苦しいことなんです。そうしたら、私はその苦しいことみんな経験しているわけで、私ながらよく頑張っているなあと思えます。

 

 神戸工業高校には、いろんな苦労の生活を生きている生徒が多いです。それでも、みんな学校に来れば明るく楽しい顔をしています。そんな笑顔を忘れず、辛いことやしんどいことがあっても、生きていれ必ず楽しいことがあるだよという気持ちで、卒業めざしていきましょう。

 

 私が詠んだ短歌です。

 

  学校と 仕事子育て 疲れても 子どもの笑顔で 元気回復